2013年04月02日

哲学/倫理学 荒谷大輔氏02 コンテンポラリーダンスによる「意味」の排除

「北村明子『To Belong』分析の試み」
(1)物語の身体性 01
 北村明子作品、あるいはコンテンポラリーダンスの作品一般は、意味のよくわからない難解なものだろうか?
ここでは、2012年9月、日本で公演された北村明子作品『To Belong - dialogue-』を分析してみたい。直接的な背景としては、スタディグループ内で行った筆者の発表があるが、本務校で毎年開いているダンス論がもとになっている。
 さて、冒頭コンテンポラリーダンスは「意味がわからない」といったが、実のところそれは、コンテンポラリーダンスが用いている戦略のひとつであり、目的ですらある、といっても差し支えないかもしれない。つまり、作品の「意味」がすんなりと理解されてしまわないこと自体が目指されているのだ。耳で聞いて平易に理解できる言葉すらテロップで流して「理解」を求める今日のメディアの一般的なあり方に比して、何とも意地の悪い、と思われるかもしれないが、そこには、意味の了解の暴力に抗するという、現代アート全体が関わる問題がある。北村作品分析という主題からあまりに外れるので深くは立ち入らないが、モダニズムの一派において強く求められた、深いところでの共感という芸術の主題への対抗である。
 産業化が進み、労働者の身体が経済の歯車のひとつに組み込まれる傾向が強まるにつれて、疎外的な社会とは異なる次元でともに繋がり合う欲望が強まる。例えば、ヒトラーを熱狂的に迎え入れ「血」の結束を求める社会的な運動を生み出したのも、その時代の欲望であった。今では負のイメージしかない「ファシズム(団結主義)」という言葉も、当時は肯定的な色彩を帯びていた。その時代の芸術は、政治に取り込まれるか/迫害されるか、という決定的な差異を含みながらも、大きく深層における象徴的なものの共有という文脈では通じていたのである。
 だが、芸術を媒介とした「深いところでの共感」が、内/外の区別を強く刻み込む共同性の論理として機能するとき、それは暴力として機能しうる。例えば、ヒトラーのお抱えだった作家の作品が隆起させる精液まみれの男性性を前に、血の奥底に眠るアーリア人の象徴を「理解」することができるかどうかは、ひとを大きな政治的な力で規定した。芸術がもつ「意味」の了解は、そこでは、内における強固な団結を生むと同時に、外に対する差異を印づけるものでもあったのである。
 こうした暴力が過ぎ去った後、いわゆるポストモダンアートが「意味」として理解されるものの枠組みを解体しようと試みたことは、それゆえ、自然な流れであった。ここでは一例を挙げるに留めるが、ルシンダ・チャイルズの『カーネーション』は、例えば、日用品が用いられる文脈を剥ぎ取り、純粋なかたちだけの「無意味」を提示したことにおいて、すぐれて「ポストモダン」な芸術であったといえる。
 こうした流れの中でコンテンポラリーダンスは自然、直接的な「意味」の伝達を回避し、作品のメッセージ性に対して常にメタ的な立場に立つ、という傾向をもつことになる。コンテンポラリーダンスが「わかりにくい」のは、それ自体が直接的な伝達を迂回したものであるからなのだ。
 だが、「意味」の排除、あるいは「無意味」への志向という試みには、自然と限界がある。というのも、「意味」の枠組み自体を解体することが「目的」として機能しうるのは、あらかじめ「意味」が共有されている場合に限られるからだ。ポストモダンの「実験」が、ひとしきり済んでしまった現在では、「意味」の回避という身振りは、コンテンポラリーダンスが、コンテンポラリーなアートとして自らを認めてもらうための名刺に成り下がっているようにも思われる。単に現代アートというコミュニティに参加するための手段としてしか機能しないものであれば、それは形式の解体ということ自体を形式として固めていることになる。(物語の身体性 02につづく)

(文:荒谷大輔ARAYA DAISUKE 江戸川大学社会学部人間心理学科准教授)
posted by office A/LB at 09:29| まきこの部屋 To Belong -pieces of dialogue- | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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