2013年04月25日

プンチャック・シラットから薫るインドネシアの土着的思想A後編 ――まな板のうえのプンチャック・シラット


プンチャック・シラットをまな板のうえで放置しておいても、面白い語りは聞けない。切り口をまちがえると、食べられなくなる。食べたことのあるひとがほとんどいないため、おいしいのかどうかも釈然としない。ただ、おいしそうな薫りがするだけだ。

プンチャック・シラットに魅了され、その薫りをもとめて歩きつづけたひとがいる。
一流のシラット競技選手で名を馳せ、プンチャック・シラットの生き字引として関係者から愛され、頼りにされていた故O’ong Maryono(オオン・マルヨノ)氏だ。

一度しかO’ong氏には会ったことがなかったが、先月の葬儀に参加してきた。葬儀では、体格と恰幅のよい壮年の男たちが、目を赤くしたり、戸惑った表情をうかべていたりしたのが印象にのこっている。葬儀の最中に、合気道的プンチャック・シラットCikalong流の達人に技をかけられて、膝をついていたのは内緒だ。

O’ong氏は、7年間にわたる文献研究と聞き書きの成果を、”Pencak Silat Merentang Waktu (1999)”としてまとめた。大学に入学したことのない在野の研究人であったが、インドネシア全土にあるプンチャック・シラットの逸話を、すべて聞いて回ったのではないかとおもうほどの尋常ではない量の情報を、400ページに詰めこんでいる。

関係者によれば、O’ong氏には、インドネシアにおけるプンチャック・シラットの現状を憂い、「プンチャック・シラットについての本を書く」ことに相当の使命感を感じていたらしい。プンチャック・シラットの多様性を見せることには成功しているが、同時にプンチャック・シラットについて、散逸的な印象を与えることになってしまっている。

O’ong氏の最大の失敗は、プンチャック・シラットの定義論争を避けたことである。
足であつめた情報、耳にした伝聞から引き出された、彼なりの意見・結論、というものは、この著作からは見えてこない。

O’ong氏の史料研究と文献調査、聞き取り調査の様子を読む限り、彼は、プンチャック・シラットに関連のありそうな身体文化を、徹底的に探しもとめたように見える。史料を分析し、結論づけるには拙速な分析だが、彼は「人類の創成と格闘術は切り離せない」「仏教遺跡(ボロブドゥール)の戦闘をあらわしているようなレリーフは、当時から、格闘術が存在していたことを示唆しているのではないか」という仮説を立てる。また、プンチャッ(penca)という記述のある13〜16世紀に成立したと思しき一節のスンダ語の詩から、「東南アジア島嶼部におけるプンチャック・シラットは当時からすでに現在と同様の機能を果たしていた」という主張を展開する。オランダ植民地期(17世紀~20世紀前半)の状況を調べるために、オランダのレイデン大学まで出かけるほどである。

プンチャック・シラットの芸術面についても、西ジャワとスマトラのみに制限してはいても、現地の伝統芸能とプンチャック・シラットの関わりについて、相当、丹念に調べている。

しかし、これだけ調べつくしておきながら、プンチャック・シラットの定義・用語法については、「プンチャック・シラットという用語が政府に公認される1973年以前についても、特定の専門用語を用いていた流派を指し示す場合以外、とくに必要がなければ、国家の掲げる方針に従う・・・(中略)・・・プンチャック・シラットのもつ意味の潤沢さを否定するつもりはない。本来なら、こうしたすべての解釈は(一部分の)真実を含んでおり、どの視点からプンチャック・シラットを観察するか、どの面を強調するか、に依存するものである。」[O’ong 1999: 8-9]【今村訳、原文はインドネシア語】という控えめな態度を見せる。

プンチャック・シラットとはなんなのか、を考え、40歳代の約10年間を費やして、探しもとめた結果の答えは、中立をとおりこして、迎合している。なにが起きたのかはわからないが、悲劇的ですらある。この本に続くO’ong氏の著作がないのは、なにかを暗示しているようにすら見える。

とにもかくにも、彼は集めた事例・データを総合するような結論を引き出さなかった。
プンチャック・シラットに関する、社会・文化的研究に支えられた、実用的で、現実に即した、客観的な定義を確立するには、まだまだ時間が必要なのだろう。


・・・というわけで、私は卑怯にもバイパスする。


O’ong Maryono
1999 Pencak Silat Merentang Waktu. Yogyakarta: Galang Press.(英語版もある。しかし、販売元に問い合わせないと、入手はむずかしいだろう)
posted by office A/LB at 11:07| プンチャック・シラット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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