2013年04月03日

哲学/倫理学 荒谷大輔氏03  物語ることの身体性

「北村明子『To Belong』分析の試み」


(1)物語の身体性 02

 北村明子の『To Belong』は、こうした流れの中で、基本的なコンテンポラリーダンスの文法を踏まえながらも、果敢にタブーを乗り越える道筋を示している。作品中に全体の流れを統制するような「物語」を導入することは、本来、個々の振付に「意味」を与えて了解へと至らせる道具として用いられることで、コンテンポラリーダンスでは回避されるべきものと位置づけられる。例えば、マーサ・グレアムの『夜の旅』は、オイディプス王の物語を軸として、ひとつひとつの身体表現の象徴性をひとりの女性の悲劇へと統合することに成功したが、そのような手法は、情感に満ちた「了解」へと観客を誘う限りにおいて、なお回避の対象となる。北村作品は、しかし、物語ること自体を芸術の形式とするワヤン・クリとの共同において、そこから物語の暴力性を排除することに成功している。
 物語が暴力として機能するのは、「意味」の了解において外部が排除されることによるが、それは、物語られた内容に「すべて」が統合されるからにほかならない。「すべて」のものが、核となるひとつの「意味」を展開することで了解できるとするならば、重要なのはその「意味」をつかむことだけで、それぞれの要素がもつ固有性に対する関心は損なわれる。言葉によって物語られたもので「意味」が理解されるならば、個々の身体表現によってそれ以上冗長に何かを示す必要はないのである。
 北村作品は、しかし、物語られた内容ではなく、物語るという行為自体に焦点をあてることで、物語の禁忌を乗り越える。語り手の言葉が「意味」を結実する手前、「語ること」自体を身体表現としてダンスに組み入れているのである。画面いっぱいに映し出されたグンドノの「語り」は、母親の喪失という悲劇を謡う。記憶を振り返るかたちで掘り起こされる悲壮な叫びは、観客の意識の底にある深い象徴を揺り動かす力を持っている。だが、その揺さぶりは、「意味」へと到達する手前で宙に放られる。そこで問題とされるのは、「母の喪失」をもたらした構造でもなければ、それをともに悲しむことでもない。それは森の風のように流れ去り、はじめから何にもなかったかのように、過ぎ去っていくだけである。そこにはしかし、語ることによって喚起されたかすかな響きが、無言の幽霊のようにたたずむのである。
 その響きは、作品全体を通じて基底音のように鳴り続けるだろう。時にかき消され、時に無音で立ち上がりながら、それは作品全体に立籠める空気となる。だが、そうした響きの通用性は、作品全体の「意味」を統制的に規定し、個々の振付の固有性を損なわせるようなものではなく、反対にダンサーの個々の身体にまとわりついて、そこから身体の強度を引き出す機能を果たす。物語るという行為自体による「ダンス」は、こうして、ポストモダンの物語アレルギーを越えて、作品の中で重要な役割を担うことになるのである。
 このエントリーでは、『To Belong』における「物語」の機能について考察を行った。続きが(一応)予定されている(2)(3)では、また異なる観点から分析を行うことにしたい。

(文:荒谷大輔ARAYA DAISUKE 江戸川大学社会学部人間心理学科准教授)
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2013年04月02日

哲学/倫理学 荒谷大輔氏02 コンテンポラリーダンスによる「意味」の排除

「北村明子『To Belong』分析の試み」
(1)物語の身体性 01
 北村明子作品、あるいはコンテンポラリーダンスの作品一般は、意味のよくわからない難解なものだろうか?
ここでは、2012年9月、日本で公演された北村明子作品『To Belong - dialogue-』を分析してみたい。直接的な背景としては、スタディグループ内で行った筆者の発表があるが、本務校で毎年開いているダンス論がもとになっている。
 さて、冒頭コンテンポラリーダンスは「意味がわからない」といったが、実のところそれは、コンテンポラリーダンスが用いている戦略のひとつであり、目的ですらある、といっても差し支えないかもしれない。つまり、作品の「意味」がすんなりと理解されてしまわないこと自体が目指されているのだ。耳で聞いて平易に理解できる言葉すらテロップで流して「理解」を求める今日のメディアの一般的なあり方に比して、何とも意地の悪い、と思われるかもしれないが、そこには、意味の了解の暴力に抗するという、現代アート全体が関わる問題がある。北村作品分析という主題からあまりに外れるので深くは立ち入らないが、モダニズムの一派において強く求められた、深いところでの共感という芸術の主題への対抗である。
 産業化が進み、労働者の身体が経済の歯車のひとつに組み込まれる傾向が強まるにつれて、疎外的な社会とは異なる次元でともに繋がり合う欲望が強まる。例えば、ヒトラーを熱狂的に迎え入れ「血」の結束を求める社会的な運動を生み出したのも、その時代の欲望であった。今では負のイメージしかない「ファシズム(団結主義)」という言葉も、当時は肯定的な色彩を帯びていた。その時代の芸術は、政治に取り込まれるか/迫害されるか、という決定的な差異を含みながらも、大きく深層における象徴的なものの共有という文脈では通じていたのである。
 だが、芸術を媒介とした「深いところでの共感」が、内/外の区別を強く刻み込む共同性の論理として機能するとき、それは暴力として機能しうる。例えば、ヒトラーのお抱えだった作家の作品が隆起させる精液まみれの男性性を前に、血の奥底に眠るアーリア人の象徴を「理解」することができるかどうかは、ひとを大きな政治的な力で規定した。芸術がもつ「意味」の了解は、そこでは、内における強固な団結を生むと同時に、外に対する差異を印づけるものでもあったのである。
 こうした暴力が過ぎ去った後、いわゆるポストモダンアートが「意味」として理解されるものの枠組みを解体しようと試みたことは、それゆえ、自然な流れであった。ここでは一例を挙げるに留めるが、ルシンダ・チャイルズの『カーネーション』は、例えば、日用品が用いられる文脈を剥ぎ取り、純粋なかたちだけの「無意味」を提示したことにおいて、すぐれて「ポストモダン」な芸術であったといえる。
 こうした流れの中でコンテンポラリーダンスは自然、直接的な「意味」の伝達を回避し、作品のメッセージ性に対して常にメタ的な立場に立つ、という傾向をもつことになる。コンテンポラリーダンスが「わかりにくい」のは、それ自体が直接的な伝達を迂回したものであるからなのだ。
 だが、「意味」の排除、あるいは「無意味」への志向という試みには、自然と限界がある。というのも、「意味」の枠組み自体を解体することが「目的」として機能しうるのは、あらかじめ「意味」が共有されている場合に限られるからだ。ポストモダンの「実験」が、ひとしきり済んでしまった現在では、「意味」の回避という身振りは、コンテンポラリーダンスが、コンテンポラリーなアートとして自らを認めてもらうための名刺に成り下がっているようにも思われる。単に現代アートというコミュニティに参加するための手段としてしか機能しないものであれば、それは形式の解体ということ自体を形式として固めていることになる。(物語の身体性 02につづく)

(文:荒谷大輔ARAYA DAISUKE 江戸川大学社会学部人間心理学科准教授)
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2013年03月31日

哲学/倫理学 荒谷大輔氏 01

このたび、荒谷大輔さんが、2012年9月の「To Belong」公演に対して、批評を寄せてくださいました。少し時間を置いて彼の分析に接すると、新しい気づきが数多くあります。ぜひ、みなさまにも読んでいただきたく思い、ブログ誌上に掲載させていただきます。批評のテキストを掲載する前に、荒谷さんの人となりをご紹介させていただきます。


荒谷さんは哲学・倫理学をご研究されていらっしゃいますが、 どのような分野をご専門とされていらっしゃるのでしょうか。 また、最近最も関心をもってとりくんでいらっしゃることについて、お聞かせください。

荒谷:まじめに答えると結構面倒くさい理屈をこねることになるので、とりあえずそのまま「哲学/倫理学」と答えるようにしています。あえて分節化すれば、人々の実際の生活に根ざした部分(=倫理)を構造的に考える(=哲学)という感じでしょうか。実際には、フランス現代思想の研究がベースになっているのですが、「フランス現代思想研究」というと色がつき過ぎてしまって、僕がやっていることと全く違うことがイメージされることが多いので、誤解をさけるためにこういっています。最近は、「人々の実際の生活に根ざした部分」ということで、しばらく「経済」について研究していましたが、それについては漸く成果が出ました。

ダンスについては、どのような興味・関心・問題意識をお持ちなのですか?

荒谷:ダンスは学生のころからずっと関心を持っていて、実際に動くことも含めて、研究をしています。ふつう人は、他人と共通した言語的な構造を使って、表現しますが、それだとどうしても言語という一般的なものを必ず媒介にする必要があります。つまり、言葉が意味を持つのは、誰か他の人がそういう意味で使っているのを聴いたことがあるからなのですね。そうすると、言葉は、時間的空間的に一回的なものを表現するのに、向いていないことになります。ダンス、特にコンテンポラリーダンスは、言語的な構造に寄りかからず表現し、しかもそれを他人に伝達することができてしまうもので、それは何なのか、というのが根本的な関心ですね。なので、批評的な関心というよりも、哲学的な関心が強いと思います。

このたび、2012年9月の[「To Belong」公演に対して、批評をご執筆いただき、ありがとうございました。北村さんの仕事はいつごろからご存知なのでしょうか。どのようなきっかけで知り合われたのか、どのような関心をもたれているのか、などについて教えてください。

荒谷:学生のころダンスに興味を持って、自分の身体を動かそうとはじめて参加したワークショップがレニ=バッソ主催のものでした。その後、ひょんなことから自分がワークショップを企画する立場になって、北村さんを「先生」としてお呼びすることをしばらく続けたのです。なので、現実にはあり得ませんが僕がダンサーとしてプロフィールを書くはめになったら、「コンテンポラリーダンスを北村明子に師事」と書く必要があるでしょう(笑)。なんで「師匠」になってもらおうかと思ったかといえば、迷わず北村さんの卓越した身体性を理由に挙げます。上に書いたこととも関係しますが、ダンスは他の芸術と違って、もっともらしい(それこそフランス現代思想に塗り固められたような)理屈づけをして売り出すことができず、ダンサーの身体がそのまま作品(の一部)となります。ダンサーの身体性は、後知恵で「勉強」してもなかなか伸ばしづらいものだと思うのですが、北村さんの身体性は、疑いなく本物だと思っています。

9月の舞台をごらん頂き、どのような印象をもたれましたでしょうか?

荒谷:これについては、書いたもので答える感じになると思いますが、一言でいえば、コンテンポラリーダンスという枠組みにとらわれずに、表現の大元のところに立ち返って新しいものを作ろうとしているな、と感じました。一時期は名実ともに日本の「コンテンポラリーダンス」の看板であったわけですが、そうしたこと自体から抜け出したいのかな、と。

もうすぐご著書である『経済の哲学』が出版されると伺いましたが、どのような内容なのでしょうか? また、ダンスやアートについて考えることと「経済」は何か関わりあう部分というものがあるのでしょうか?

荒谷:恐れ入ります。『「経済」の哲学』は、今の社会において、すっかり支配的な原理として浸透した「経済」の構造を哲学的に問い直すというものです。「経済」というのは、もともと「思想」の言葉で、例えばストア派では宇宙の秩序のことを意味していましたし、キリスト教では今でも、神による救済の計画の実現を「経済(日本語では訳しわけて「経綸」とすることが多いですが同じ言葉です)」と言っています。他にもいろいろな時代でいろいろな用法があるのですが、総じて「経済」という言葉は、いつでも、特定の思想の枠組みにおける「ありうべき秩序」を意味するものとして使われているのです。
 このことは、実は現代の経済学でも全く同じで、経済学ではふつう「経済」とは何かみたいなことは考えの外におくのですが、それは、みんな同じ経済学によって「経済」を考えるということにおいてすでに、特定の「思想」の共有を前提にしているからなのですね。その「思想」とは何かということ、現代の社会に生きている人がふだん全然思想なんか関係なく自由にやっていると思っていながらもすでに刷り込まれてしまっているものの在りかを示すことがテーマになっています。
 ダンスやアートとの関係をいうとすれば、もっともベタにいえば、アートが「経済」に支配される現状をどうするかということでしょうね。ダンスやアートには、既存のシステムの乗り越えて新しいものを指し示す力があると思うし、そうでなければならないと思うのですが、現状は経済原理で動いている。批判したらキリがないですが、アーティストとしての名声を確立するために意図的に経済原理を使う人までいて、「勝ち組」になれれば何でもいいのかよ、と思うこともしばしばです。現代これだけ支配的なシステムにのっかるというのはひとつの手段であるとは思いますが、異なるシステムをまわしていくための希望としてダンスやアートが人々を魅了するような状態を目指すことを忘れてはいけないと思います。

(構成:つちやまきこ)
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